流転工房

シンギュラリティをこの目に

青空文庫を使った発声・朗読練習ネタ。

 

思い立って発声練習。ボイストレーニングというらしい。

自分の低くて通りにくい声を朗読で鍛えよう。

練習ネタとして渋い文章を使ってみる。

 

小さきものへ 有島武郎

小さき者よ。

不幸なそして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ。前途は遠い。そして暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。

行け。勇んで。小さき者よ。

 

船中八策 坂本竜馬

一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。

一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。

一、有材の公卿・諸侯及および天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。

一、外国の交際広く公議を採り、新あらたに至当の規約を立つべき事。

一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。

一、海軍宜しく拡張すべき事。

一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。

一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。

以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内うだい万国に徴するに、之を捨てて他に済時の急務あるべし。

苟いやしくも此数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立するも亦敢て難かたしとせず。

伏ふして願ねがはくは公明正大の道理に基もとづき、一大英断を以て天下と更始一新せん。

 

山月記 中島敦

おれは次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶(ふんもん)と慙恚(ざんい)とによって益々ますます己おのれの内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。

人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。

己おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。

これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。

今思えば、全く、己は、己の有もっていた僅わずかばかりの才能を空費して了った訳だ。

人生は何事をも為なさぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄ろうしながら、事実は、才能の不足を暴露ばくろするかも知れないとの卑怯ひきょうな危惧きぐと、刻苦を厭いとう怠惰とが己の凡すべてだったのだ。

己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。

虎と成り果てた今、己は漸ようやくそれに気が付いた。

それを思うと、己は今も胸を灼やかれるような悔を感じる。

己には最早人間としての生活は出来ない。たとえ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう。

まして、己の頭は日毎ひごとに虎に近づいて行く。

どうすればいいのだ。己の空費された過去は?

己は堪たまらなくなる。

そういう時、己は、向うの山の頂の巖いわに上り、空谷くうこくに向って吼ほえる。

この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処あそこで月に向って咆ほえた。誰かにこの苦しみが分って貰もらえないかと。

しかし、獣どもは己の声を聞いて、唯ただ、懼おそれ、ひれ伏すばかり。

山も樹きも月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮たけっているとしか考えない。

天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。

ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易やすい内心を誰も理解してくれなかったように。

己の毛皮の濡ぬれたのは、夜露のためばかりではない。